泉福寺 | 大津市 | 真宗大谷派 泉福寺

泉福寺のあゆみ

泉福寺の開創は伝教大師最澄によると伝えられ、叡山三千坊のひとつとして、七堂伽藍を備えた湖西随一の霊場であったと言われていました。

泉福寺という寺号は、伝教大師がこの寺を建立された時につけられたものと伝えられます。

泉福寺の菩提院という院号は後光巌天皇が泉福寺に御幸された時に名づけられたと伝えられます。

後光巌天皇は、南北朝の動乱期に在位された北朝第4代の天皇で、泉福寺の仏前に、桓武天皇をはじめとする多くの位牌が立ち並び、その菩提をとむらっていたところ、この徳をめでて天皇が菩提院の勅額下賜なさったというのです。

一時退転していた泉福寺は、明導僧都により、観応3年(1352)に創立されました。

明導僧都は、この時すでに覚如上人に帰依していたとも伝えられます。この後、明長・明寛・明了・明空と続き、明空の時に真宗に転宗したと伝えられ、この僧を中興第一世としています。

中世末期に真宗の道場として創建された泉福寺は、各所に末寺を建立し、寺勢を整えていきました。大津の泉福寺、尾花川の超泉寺、仰木の光照寺、今堅田の円成寺という4つの末寺があったことを伝えています。
寛正の法難以後、堅田に難をのがれた蓮如上人は、応仁2年(1468)の山門による堅田大責に際して、大津浜道覚の道場に「新殿(あたらしどの)」を造立して親鸞聖人の御影を移し、さらに文明元年(1469)には三井寺南別所に「御坊」(近松山顕証寺)を造立しました。
このときに肝煎となって功をたてたのが泉福寺明空と堅田本福寺の法住であり、この功績により末寺として大津に二カ寺が建立され、一寺を泉福寺、一寺を本福寺に与えたと伝えられます。

正徳(1711)の頃、火災により泉福寺本堂並びに書物が焼失し、詳細は不明。

後に再建され、290年経ちましたが、老朽が著しく、木材の寿命もあり、縁あって、平成18年10月に落慶法要を迎え現在の本堂にいたっております。

びわ湖の写真